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2016.02.23
主人公
「おーい!主人公、いるか!」
「ハイ」
「はっきりと目を醒ましているか!」
「ハイ」
「これから先も騙されるでないぞ!」
「ハイ、ハイ」
今日も呼びかけていますか?

その昔。茶室で拝見するお軸が禅語との出会いでした。
難解で意に介せず、実感ももてなかった二十の頃。
それから30年の歳月を経て、
禅語は道行きの標のひとつとなりました。
お茶の世界も、禅の世界も、茶禅一味はYogaなり!
「心の師とハなれ、心を師とせされ」

今週の日本橋クラスとナースクラスは「主人公」~無門関より
松原泰道老僧の言葉をもとにYoga話進めました。
以下、『禅語百選』より一部要約です。
普段のいうところの自分A「日常的自我」と、
その自我に呼びかける自分B「本質的自己」。
Bの自分は日常Aの底に深く埋もれている為、捉えにくいが、
人間とは、このAとBの「同行二人」で歩み続ける旅人なり。
この二人の話し合いが多いほど、その人柄は豊かになり、
少ないほど貧しいものとなる。
AとBとが重なり合って、あたかも同一人のようになるのが望ましい。
「主人公」と呼ぶAと、ハイと答えるBとが一つにとけあうと
「主人公」がそのまま「はい」の答えに生まれ、
一如になって、はじめて主人公が主人公たり得る。


「おーい!いるか!」
今日も「主人公~」と呼びかけながら自分のところへ引き戻そう

~写真は立春に訪れた根津美術館のお庭にて
「ハイ」
「はっきりと目を醒ましているか!」
「ハイ」
「これから先も騙されるでないぞ!」
「ハイ、ハイ」
今日も呼びかけていますか?


その昔。茶室で拝見するお軸が禅語との出会いでした。
難解で意に介せず、実感ももてなかった二十の頃。
それから30年の歳月を経て、
禅語は道行きの標のひとつとなりました。
お茶の世界も、禅の世界も、茶禅一味はYogaなり!
「心の師とハなれ、心を師とせされ」


今週の日本橋クラスとナースクラスは「主人公」~無門関より
松原泰道老僧の言葉をもとにYoga話進めました。
以下、『禅語百選』より一部要約です。
普段のいうところの自分A「日常的自我」と、
その自我に呼びかける自分B「本質的自己」。
Bの自分は日常Aの底に深く埋もれている為、捉えにくいが、
人間とは、このAとBの「同行二人」で歩み続ける旅人なり。
この二人の話し合いが多いほど、その人柄は豊かになり、
少ないほど貧しいものとなる。
AとBとが重なり合って、あたかも同一人のようになるのが望ましい。
「主人公」と呼ぶAと、ハイと答えるBとが一つにとけあうと
「主人公」がそのまま「はい」の答えに生まれ、
一如になって、はじめて主人公が主人公たり得る。


「おーい!いるか!」
今日も「主人公~」と呼びかけながら自分のところへ引き戻そう


~写真は立春に訪れた根津美術館のお庭にて
TOKO
根津美術館は何度も行っているのに、お写真を拝見して、あれ~!?こんな像、どこにあったかしら・・・次の機会にさがします。
主人公である本質的自己は正しいという、性善説のような考えに拠っているのでしょうか?
主人公である本質的自己は正しいという、性善説のような考えに拠っているのでしょうか?
2016/03/02 Wed 15:20 URL [ Edit ]
Makiko
TOKOさま、ご質問ありがとうございます☆
本質的自己、本来の自己、とは仏性と呼ばれるもで、内に「尊い自己」をひそめている、ということです。
だから外に求める必要はないのです。清浄なる自分がそのままいることへの自覚!といえばいいでしょうか。
なので古代中国思想に由来する性善説、性悪説や道徳観念的な正しいとか間違っているを適用するには無理があります。
特に仏教の基本的立場は「空性」「中道」にありますから善悪、正邪という二元的な概念では捉えないです。
四季折々の根津美術館のお庭大好きです♪
本質的自己、本来の自己、とは仏性と呼ばれるもで、内に「尊い自己」をひそめている、ということです。
だから外に求める必要はないのです。清浄なる自分がそのままいることへの自覚!といえばいいでしょうか。
なので古代中国思想に由来する性善説、性悪説や道徳観念的な正しいとか間違っているを適用するには無理があります。
特に仏教の基本的立場は「空性」「中道」にありますから善悪、正邪という二元的な概念では捉えないです。
四季折々の根津美術館のお庭大好きです♪
2016/03/03 Thu 15:40 URL [ Edit ]
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