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2017.02.09
“和”マインドフルネス~色葉にほへど

<日本マインドフルライフ協会 講演会>
2月25日土曜日13:30 早稲田大学にて
「 『和』マインドフルネス~色葉にほへど 」、と題しまして
未熟者ながらお話しさせていただきます。
「道」からのマインドフルネス。
古代ギリシア哲学から見渡し、対比しながら、
「ある」とは何か。「言葉」とは何か。
サンスクリット語の語源ももちいながら、
和のモノの見方、唯識の立場、様々な角度から
正念;マインドフルネスの根底に流れる深さを考察してまいります。
「言葉を越えたところ」をYogaではなく、
「言葉」を用いてお伝えすることの難しさを痛感しつつ、
生をみつめるヒントがいっぱいに詰まった講演となりますよう、
いま全力で原稿の仕上げにむかっています(^-^)/
ぜひお立ち寄りくださいませ。
南
いろは歌の諸行・有為から話を起こし、存在(実体)を考察する西洋哲学と意識が生み出すものを思弁する仏教哲学の考え方の違いを説明して、森本さんの問題意識へのひとつの解を提示なさった流れは大変興味深く拝聴いたしました。講演のお題が「和文化とマインドフルネス」でしたのでそちらも前半で言及せねばならず(第2章)、お話しされるお立場からは、前半の構成が忙しくなってしまったのではないでしょうか。僭越ながら蛇足を付け加えれば、西洋哲学はプラトンのイデアに始まり、アリストテレスの第一動者、プロティノスの一者が、アウグスティヌスによってキリスト教に取り入れられて後は、絶対存在である神が創造したものは(神は偽ることがないので)存在するのは自明であり、実体は何かという問題が18世紀まで続くことになったと思います。また言葉=ロゴスは世界の切り取り方であり、まさに分別にです。その対比として仏教哲学へと論が移り、分別しない思想がこころの柔軟さにつながるお話は大変分かりやすかったです。時間があれば唯識思想のお話をもっと伺いたかったです。
2017/02/26 Sun 19:48 URL [ Edit ]
Makiko
南さま、この度はお足を運んでくださいまして、またご感想を賜り誠に嬉しく存じます。
75分間という限られた中で、テーマにそって語るにはどの道筋から述べるのが適切か推敲を重ねてまいりました。ご指摘のとおり、西洋哲学の存在論を考察するならば、プラトンのイデア、アリストテレスの不動の動者、プロティノスのト・ヘン、アウグスティヌスから中世の神学へというのが通説かと思われます(私はまさしく卒論をプラトン、プロティノスからルネッサンス期の新プラトン主義者フィッチーノで仕上げました)。ただその流れからでは形式という概念を述べるには神秘主義的要素がぬぐえない立場にあり、今回の「和文化とマインドフルネス」を語るに際しましてはアリストテレスの形式論理学から「主語-述語」「実体-属性」の図式を前提にもつ概念から繋げることによって主語も持たない、あるいは言葉を越えた世界を浮き彫りにしてご説明した方が制限ある時間内ではわかりやすいのではないかと第3章をまとめた次第でございます。
「唯識三年、倶舎八年(アビダルマを八年学んでから唯識三年、計11年かけてやっとわかる」、と云われますくらい深いものを私などでは到底語り得ない世界であることを知りつつも学ぶ姿勢を続けたいと存じます。
またお目にかかれますことを楽しみにしております。有り難うございました。
75分間という限られた中で、テーマにそって語るにはどの道筋から述べるのが適切か推敲を重ねてまいりました。ご指摘のとおり、西洋哲学の存在論を考察するならば、プラトンのイデア、アリストテレスの不動の動者、プロティノスのト・ヘン、アウグスティヌスから中世の神学へというのが通説かと思われます(私はまさしく卒論をプラトン、プロティノスからルネッサンス期の新プラトン主義者フィッチーノで仕上げました)。ただその流れからでは形式という概念を述べるには神秘主義的要素がぬぐえない立場にあり、今回の「和文化とマインドフルネス」を語るに際しましてはアリストテレスの形式論理学から「主語-述語」「実体-属性」の図式を前提にもつ概念から繋げることによって主語も持たない、あるいは言葉を越えた世界を浮き彫りにしてご説明した方が制限ある時間内ではわかりやすいのではないかと第3章をまとめた次第でございます。
「唯識三年、倶舎八年(アビダルマを八年学んでから唯識三年、計11年かけてやっとわかる」、と云われますくらい深いものを私などでは到底語り得ない世界であることを知りつつも学ぶ姿勢を続けたいと存じます。
またお目にかかれますことを楽しみにしております。有り難うございました。
2017/02/26 Sun 22:31 URL [ Edit ]
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