2023.07.18
Padma 2023 続
厳しい暑さが続く中、
つぎつぎと、美しい姿を見せてくれています。

早朝、ゆるんだ蕾から初々しい純白の光を放ち、
まだ蕾の青をうっすらと表面に残したままのその可憐な華は、
数時間後お昼前には、
儚い命を保つように、そっと花びらを閉じてしまいます。

早朝に開いて、お昼前には閉じてと
その繰り返しを三回(三日)終えたあと、
命の時間を数えていたかのように、
四日目には、もう閉じることなく、
みごとに、一気に、花びらを散らしてしまいます。
みずからの定めを知っているのでしょうか。
散り行くその前日、
お別れを告げる光を放った白蓮をご笑覧ください。


『維摩経』
「身は泥中の蓮華」に由来する諺「泥中の蓮」にみるように、
「煩悩の汚れの中にあっても決して染まらず、
清らかに純真な心と姿を保って生きよ」、
とその生きざまを示してくれているようです。

つぎつぎと、美しい姿を見せてくれています。

早朝、ゆるんだ蕾から初々しい純白の光を放ち、
まだ蕾の青をうっすらと表面に残したままのその可憐な華は、
数時間後お昼前には、
儚い命を保つように、そっと花びらを閉じてしまいます。

早朝に開いて、お昼前には閉じてと
その繰り返しを三回(三日)終えたあと、
命の時間を数えていたかのように、
四日目には、もう閉じることなく、
みごとに、一気に、花びらを散らしてしまいます。
みずからの定めを知っているのでしょうか。
散り行くその前日、
お別れを告げる光を放った白蓮をご笑覧ください。


『維摩経』
「身は泥中の蓮華」に由来する諺「泥中の蓮」にみるように、
「煩悩の汚れの中にあっても決して染まらず、
清らかに純真な心と姿を保って生きよ」、
とその生きざまを示してくれているようです。

2023.07.10
七夕 ヨーガ@目白庭園


目白庭園での対面クラスを控えたその朝、
朝日と溶け合うように、蓮の蕾がひとつゆるみました。
純白の花に「行ってらっしゃーい」と見送られて、
七夕の日の、久しぶりの再会を喜びました。




ゆったりとした流れのなかで、
瞑想とアーサナを通して呼吸を深めながら
身心をゆるやかに調えていく。
その今ここを味わう空間は、至福のときでありました。
今日、この日の瞬間、瞬間の記憶を、
ご恵送いただいた写真とともに、
ここに留めておきたいと思います

ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。

「なんのために生きてるのか」のこたえは、
まいにち ちがっててもいいわよね。
いのちをつかって「バランスをとるあそび」をしているだけって
考えることもできるんじゃない?
なんのために生きてるのかわからなくても、
わたしたちは つまんないえいがも、おもしろいえいがも
みることができる お客さんなのよ。
” memento mori “ いえ、可愛い『メメンとモリ』(^.^)より






<photo by Aikoさん, Kaoruさん, Chisakoさん>
2023.07.03
Padma 2023
2023.06.15
坐
「わしゃ凡夫じゃから悟りは開けんよ。
坐禅をやっても悟りは開けん。
ただ坐禅をやっている間は、苦しみを忘れるわな。
それでいいのじゃ。
人間はみな煩悩をもっている。
それを相手のせいにしちゃいかん。
自分で始末する。
そこが大切なことじゃね」
(『大拙と幾多郎』p207 『野村洋三伝』)
「坐禅をしたり少林会をやっているけれど、悟りを開いているのか」と
娘に尋ねられた時の野村洋三氏の答えに、思わず笑みがこぼれました。
「「苦しみを忘れる」というのは、
厳しい、不安定な、常に揺れているような現実の頼り無さを克服できるということ」
「坐っていると気持ちがいいですな」
斯くも偉人がこう仰っていたのですから、
さあ、わたしたちも坐りましょ
今週もご参加お待ちしております。
坐禅をやっても悟りは開けん。
ただ坐禅をやっている間は、苦しみを忘れるわな。
それでいいのじゃ。
人間はみな煩悩をもっている。
それを相手のせいにしちゃいかん。
自分で始末する。
そこが大切なことじゃね」
(『大拙と幾多郎』p207 『野村洋三伝』)
「坐禅をしたり少林会をやっているけれど、悟りを開いているのか」と
娘に尋ねられた時の野村洋三氏の答えに、思わず笑みがこぼれました。
「「苦しみを忘れる」というのは、
厳しい、不安定な、常に揺れているような現実の頼り無さを克服できるということ」
「坐っていると気持ちがいいですな」
斯くも偉人がこう仰っていたのですから、
さあ、わたしたちも坐りましょ

今週もご参加お待ちしております。
2023.05.11
回顧展
今、気になる二つの回顧展に行ってまいりました
まずは、マティス展「色、形、線 冒険の物語」

図録に収められているコラム「もうひとつの生を生きる―マティスのアオリスト」
(岡崎乾二郎著)によれば、
マティスは、
うつろいやすい光景の描写の「持続しない」一瞬しか捉えられなかった印象派を超えて、
「分裂した表象を繋げ、あるいは通り抜けるという「持続」」(p223)を探求したとのこと。
連続は位置付けられる場所がないゆえに、
(時間的な)「持続」として、かろうじて把握される。
その「持続」はそれを把握する主体の意識の持続性として理解され、
経験する主体の側に回収される。
連続させるような経験が生起したとき、
その連続させているものを時間と呼び、
結果としてその分節を包摂する、より大きな、延長しつづける空間、
が想像されるのである。
そこには、
「ベルクソンの持続という概念に強い親和性をもっていた」(p231)とありました。

マティスのあふれる色彩の物語に示される「生きる喜び」は、
ベルクソンの「elan vital」
(生命の進化を推し進める根源的な力として想定された「生命の飛躍(生の飛躍)」)
の思想が潜んでいたかのかもしれません。
余談ですが、前回の西田哲学はその後期にベルクソンに影響を受け、
現実の世界を変えていく=創って行く「歴史的現実界」の論理的構造に至ったそうな。
西田幾多郎(1870-1945)
アンリ=ルイ・ベルクソン(1859-1941)
アンリ・マティス(1869-1954)
そして、同じ時代に生きた、ジョルジュ・ルオー(1871-1958)
回顧展「かたち、色、ハーモニー」

ギュスターヴ・モローに学んだ同門でもあったマティスとルオーは
生涯に渡りとても親しい間柄であったそうです(友情の手紙)。
ご存知の通り、二人の画風はまったく異なる対照的な「形式」と「様式」をもち、
私は、ルオーの暗い宗教的主題の作品があまり好きでなかったのですが、
それは愚かな先入観であったことに気づかされました。

写真撮影可のお部屋にて
19世紀末から20世紀前半のフランスの地で、
二つの大きな大戦を経験し、生きた二人。
多くの問題を抱える現代に、
人間と社会について、近代を内側から眺めてみる。
生とはなにか、響くものが、そこにありました。

まずは、マティス展「色、形、線 冒険の物語」

図録に収められているコラム「もうひとつの生を生きる―マティスのアオリスト」
(岡崎乾二郎著)によれば、
マティスは、
うつろいやすい光景の描写の「持続しない」一瞬しか捉えられなかった印象派を超えて、
「分裂した表象を繋げ、あるいは通り抜けるという「持続」」(p223)を探求したとのこと。
連続は位置付けられる場所がないゆえに、
(時間的な)「持続」として、かろうじて把握される。
その「持続」はそれを把握する主体の意識の持続性として理解され、
経験する主体の側に回収される。
連続させるような経験が生起したとき、
その連続させているものを時間と呼び、
結果としてその分節を包摂する、より大きな、延長しつづける空間、
が想像されるのである。
そこには、
「ベルクソンの持続という概念に強い親和性をもっていた」(p231)とありました。

マティスのあふれる色彩の物語に示される「生きる喜び」は、
ベルクソンの「elan vital」
(生命の進化を推し進める根源的な力として想定された「生命の飛躍(生の飛躍)」)
の思想が潜んでいたかのかもしれません。
余談ですが、前回の西田哲学はその後期にベルクソンに影響を受け、
現実の世界を変えていく=創って行く「歴史的現実界」の論理的構造に至ったそうな。
西田幾多郎(1870-1945)
アンリ=ルイ・ベルクソン(1859-1941)
アンリ・マティス(1869-1954)
そして、同じ時代に生きた、ジョルジュ・ルオー(1871-1958)
回顧展「かたち、色、ハーモニー」

ギュスターヴ・モローに学んだ同門でもあったマティスとルオーは
生涯に渡りとても親しい間柄であったそうです(友情の手紙)。
ご存知の通り、二人の画風はまったく異なる対照的な「形式」と「様式」をもち、
私は、ルオーの暗い宗教的主題の作品があまり好きでなかったのですが、
それは愚かな先入観であったことに気づかされました。

写真撮影可のお部屋にて
19世紀末から20世紀前半のフランスの地で、
二つの大きな大戦を経験し、生きた二人。
多くの問題を抱える現代に、
人間と社会について、近代を内側から眺めてみる。
生とはなにか、響くものが、そこにありました。
2023.04.27
己事究明
後期の西田幾多郎先生にラブレター?を発見 
私と汝を包摂する何らの一般者もない。
しかし私は汝を認めることによって私であり、
汝は私を認めることによって汝である。
私の底に汝があり、汝の底に私がある。
私は私の底を通じて汝へ、
汝は汝の底を通じて私へ結合するのである。
絶対に他なるがゆえに内的に結合するのである。
『無の自覚的限定』
この西田の「底」とは、
「絶対無の自覚の場所」(自己が自己に於いて自己を見る、包む、無分別の世界)をいう。
もしかしたら、この「底」は、
フランス現代思想のジャック・ラカンの「穴」としての現実界(le réel )とも類似する概念かもしれない。

講義ノートをちまちま(^_^)
後期の西田は「絶対無の自覚」の底に於いて、
響き合う「私と汝」(私の人格と汝の人格)の世界から、
「私と汝と彼(彼女)と物」、
そして「個物的多の世界」の歴史的現実界の創造へと還相して行く。
還相廻向と、菩薩行に思いを馳せて、
ずっと知行合一の修行なり (*^_^*)

Sirsasana(頭立ちのポーズ)
~Photo by Chisakoさん (^^) 連写をありがとうございました~

私と汝を包摂する何らの一般者もない。
しかし私は汝を認めることによって私であり、
汝は私を認めることによって汝である。
私の底に汝があり、汝の底に私がある。
私は私の底を通じて汝へ、
汝は汝の底を通じて私へ結合するのである。
絶対に他なるがゆえに内的に結合するのである。
『無の自覚的限定』
この西田の「底」とは、
「絶対無の自覚の場所」(自己が自己に於いて自己を見る、包む、無分別の世界)をいう。
もしかしたら、この「底」は、
フランス現代思想のジャック・ラカンの「穴」としての現実界(le réel )とも類似する概念かもしれない。

講義ノートをちまちま(^_^)
後期の西田は「絶対無の自覚」の底に於いて、
響き合う「私と汝」(私の人格と汝の人格)の世界から、
「私と汝と彼(彼女)と物」、
そして「個物的多の世界」の歴史的現実界の創造へと還相して行く。
還相廻向と、菩薩行に思いを馳せて、
ずっと知行合一の修行なり (*^_^*)

Sirsasana(頭立ちのポーズ)
~Photo by Chisakoさん (^^) 連写をありがとうございました~
2023.04.20
春陽
NYから春が届きました

@Central Park 4/15

@Park Ave. & 90th

Yukiさん、ありがとう\(^o^)/
こちらはLondonから


4/16 娘より
春の朝
雀がなくな、
いい日和だな、
うっとり、うっとり、
ねむいな。
上の瞼はあこうか、
下の瞼はまァだよ、
うっとり、うっとり
ねむいな。
『金子みすゞ全集』
東京ははや新緑を迎える頃となりました。
なにかと気ぜわしい時節でありますが、
こころを優しく包んでくれるような春陽に時に身を委ね、
「内側」をも楽しみましょうね。

@赤坂日枝神社 4/16


@Central Park 4/15

@Park Ave. & 90th

Yukiさん、ありがとう\(^o^)/
こちらはLondonから



4/16 娘より
春の朝
雀がなくな、
いい日和だな、
うっとり、うっとり、
ねむいな。
上の瞼はあこうか、
下の瞼はまァだよ、
うっとり、うっとり
ねむいな。
『金子みすゞ全集』
東京ははや新緑を迎える頃となりました。
なにかと気ぜわしい時節でありますが、
こころを優しく包んでくれるような春陽に時に身を委ね、
「内側」をも楽しみましょうね。

@赤坂日枝神社 4/16